高松中学と高松高女の校歌の意味
高松中学と高松高女の校歌は格調高い歌詞ですが、文語体で書かれているため、意味がよく分からないところもあります。そこで、口語体に訳してみました。
一、 |
朝日輝く屋島山 小波(さざなみ)寄する玉藻浦 平和漲(みなぎ)る其の響 生氣溢るる其の光 我が學舎(まなびや)に充ち滿ちて 勤(いそ)しむ健兒一千餘 |
朝日に輝いている屋島山 さざ波が寄せている玉藻浦 そのさざ波の響きには平和がみなぎっており 屋島山に輝く光には生気があふれている その響きと光はわれわれの学び舎に満ち満ちていて そこでは一千余名の健児たちが勉学に励んでいる |
二、 |
御稜威(みいつ)と共にいや高く 朝夕仰ぐ碑(いしぶみ)は 日嗣(ひつぎ)の皇子(みこ)の行啓の 千代に朽ちせぬ記念なる 奮闘努力の健男兒 ゆめな忘れそそのかみを |
神の威光とともにいよいよ高く 朝に夕に仰ぎ見る石碑は 皇太子が行啓されたとき(後の大正天皇である嘉仁親王が1903年(M36)に高松中学校を訪れたとき)に その名誉が永遠に絶えないようにとの記念に建てられたものである 力を尽くして努め励んでいる健児たちよ 決して忘れるな その神の御威光と昔のことを |
三、 |
厳冬霜雪(げんとうそうせつ)色變えぬ 紫雲の松を名に負へる 我が中學の健兒らよ 堅忍不撓(けんにんふとう)功遂げて 屋島山頭いや高く 名譽の旗を翻せ翻せ |
紫雲山の松は厳しい冬の霜や雪でも色を変えない その松を名前に持っている われわれ高松中学の健児たちよ つらさや苦しさに耐え どんな困難にも屈せず 立派な仕事をなしとげて 屋島山の山頂にいよいよ高く 名誉の旗をひるがえせ |
一、 |
みれども飽かぬ玉藻の浦、 千尋(ちひろ)の底にしつくなる、 その白珠(しらたま)のうるはしき、 清き心をみがゝかむみがかむ をとめわれ、 |
(柿本人麻呂が「玉藻よし讃岐の国は国からか見れども飽かぬ」と謡ったように) 見ても見ても見あきることのない玉藻浦 その深い海の底に奥深く沈んでいる 真珠のように 端麗で美しく清らかな心を 私たち乙女は磨こう |
二、 |
朝夕あふぐ屋島の山、 峰(お)の上(へ)はるかに並び立つ、 その山松の色かへぬ、 高き操(みさお)を守らむ守らむ 處女(をとめ)われ、 |
朝に夕に仰ぎ見る屋島山 その山頂に気高く並び立っている 山の松が色を変えないように 私たち乙女は いつまでも気高い心を守ろう |
三、 |
開くる御代(みよ)の幸(さち)おほき、 身にはつとめもさはなれは、 うら若き日をたゆみなく、 をみなの業(わざ)を習はむ習はむ 少女(をとめ)われ、 |
(大正天皇の即位による)新たなご治世は幸多い (それと同様に)私たちの身にもなすべきことが多くあるので 若く初々しい日々を心を緩めることなく 私たち乙女は 婦人としてなすべき勤めを学ぼう |
四、 |
いや榮えゆく皇國(すめぐに)の、 生ける効(かい)ある御民(みたみ)ぞと、 仁慈(めぐみ)あまねき大君の、 詔勅(みこと)かしこみ盡さむ盡さむ をとめわれ |
ますます繁栄する皇国で 私たちは生きる甲斐ある天皇の民である その民に情け深い思いやりを広くかけて下さる大君 私たち乙女は その大君の命を謹み承り 大君に尽くそう |
高松高女の歌詞は「晩翠」第1号(大3.11.3発行)に掲載されていたものを引用しています。