長谷川汎(昭和29年卒)

 昭和二十年、終戦の年に小学校四年生だった私は、広島県の福山市から高松市立二番丁小学校に転校。
 その後、二十七年の歳月、さぬきうどん愛好家兼推進派の一員となって伝統食文化普及活動に専念?一日一食、さぬきうどんを頂いて成長。
 こんな理由で高松は故郷であると自認しております。

 さて、四国・高松の生活のなかで大原美術館(倉敷市)の存在を忘れることは出来ません。

 絵を描くことが全く苦手な私は、孫に描く絵も「ヘのへのもヘの」が手の届くところです。
しかし神様は公平なものでして絵を鑑賞する心を私に与えて下さいました。絵は描けない、されど、絵を見るのは大好きということは、どこか変なのかも知れませんが。

 大原美術館のお蔭で富本憲吉、芹沢銈介、浜田庄治、バーナード・リーチ、河井寛治郎、棟方志功というトップクラスの作品が鑑賞出来たのは私にとって幸せでした。

 昭和四十七年、調布に転居する間、私は一年のうちの五~六回は大原美術館詣をしたものです。
 職場のカメラ同好会による撮影会、高松日赤病院の絵画クラブとのスケッチ会、友人、知人と高松-倉敷間を往復した回数と人数は記憶に出来ないくらいのものだったと今では自負?しております。

 どうしてそんなに大原美術館に通ったのか、その事由は、美術館とそこをとりまく環境が最高だったからだと思っております。
 いまでは、この近辺が美観地区に指定されています。


 また、道中の楽しみも格別でした。
 宇高連絡船に乗ると指定席はデッキ、潮風を浴ぴるのが大好きで心地よい磯の香りに大満足、天然栄養剤の潮風を胸一杯に吸い込む深呼吸、その一瞬、無我の境地。「天は空なり、空は天に在り」と考えもつかないことを想像。
 青春時代の純粋・透明・無の心、いま流の癒しを満喫していたのでしょうか。
 出航のドラの音の響きは、空気の中に残っているようで、言葉にして上手く表現できないのは残念でなりません。
 桟橋から転勤族に万歳三唱、新婚カップルには「ガンバレョー」の声援が定番。
 岸壁からユラリ、ユラリと船が離れると赤、青、黄、白、緑、紫・・・のテープが大空高く高く舞い上り、人々の顔が次第に遠く、小さくなる光景は、人生ドラマのカットとして心に生き残っております。
 連絡船の乗船は約一時間、宇野港に到着。

 これからが大変でした。
 岡山行き汽車ポッポの座席確保のためヨーイ・ドンで宇野桟橋から宇野線のホームまで走るのです。無我夢中で走る様相は異常かも知れませんが、現実にあった事です。
 いま思うと心臓に悪いので再現できない過酷なレースでした。
 苦あれば楽あり。座席に坐ること約三十分、茶屋町下車、今度は茶屋町から倉敷行きの国鉄バスに乗り換えです。当時は列車とバスの連絡が悪く、十五分位はバス停で休憩でした。
 でも、六月頃に行くと、いぐさのシーズン、田植の風景もバスの中から眺められて緑の絨毯が目に飛ぴ込みます。
 日本の故郷再発見、無形財産の価値を自分の目で確認できます。

 倉敷に到着すると、中央通りの街中を歩いて約二十分位で不思議な魅カの町。感動する場所に来ます。
 大原美術館の隣(正面右側)には、素敵なコーヒー店、エル・グレコ(昭和三十四年開店、大原総一郎氏が命名)があります。
 雰囲気は抜群、実は私もここの大ファン。必ず立ち寄ってから美術館に行くのがコースでした。

 大原美術館本館二階展示室には、世界の名画がズラリと並んでいます。
 エル・グレコ「受胎告知」、ルオー「呪われた王」、セザンヌ「水浴」、モネ「睡蓮」、ゴーギャン「かぐわしき大地」、ミレー「グレヴィユの断崖」、クールベ「秋の海」、ホドラー「木を伐る人」等です。
 大きなソファーに坐り、名作品を一つ一つ眺める、見る、見定める、見極める、見破る、気分で考えられることを提案しておきましょう。
 世界はあなたの為にあることを実感できるかも知れません。