朝原 雄三(あさはら ゆうぞう)
高松高校 昭和58年卒

プロフィール

京都大学文学部を卒業後、1987年、松竹(株)に入社。
松竹では山田洋次監督の下で助監督・監督助手として、『男はつらいよ』シリーズ・『学校』などの制作にかかわる。
1995年、『時の輝き』で映画監督デビュー。
2003年の釣りバカ日誌第14作から2009年の第20作ファイナルまで監督を務める。
『釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?』で2004年度芸術選奨新人賞を受賞。

朝原さんへのインタビュー

(第25回東京玉翠会総会プログラムより)

監督になろうと思ったきっかけは?

 父親が映画を好きで、小さい頃からよく観にいきました。小学校の時に、「夢はアニメーション映画の監督になること!ウオルトデイズニーみたいになりたい」と書いた覚えがあります。
 高高時代には映像同好会に入っていて、8mm映画を何本か撮影しました。
 映画づけになったのは大学時代。
 学生運動に巻き込まれ、学校に行かなくなり、人と口も利かず、何日も映画を観て過ごし ました。
 大学を卒業した年は、松竹50周年記念で映画「キネマの天地」が撮影・公開された年で、 松竹として17年ぶりの助監督試験が行われ、試験の結果、私を含めて3人が採用されました。
 久しぶりの社員助監督採用ということで、会社も苦慮したのか、1週間の研修後、半年間は仕事らしい仕事がない時をすごしたりしました。

監督のお仕事はどうですか?

 30歳のときに監督デビューしましたが、それまで山田洋次監督の下で助監督をしていました。
 大船撮影所が勤務先だったのですが、久しぶりの社員助監督ということもあってか、「助監督は将来監督になる。社員で入った助監督は大切にする」という方針で、フリーの助監督がまるで雑巾のように働いているのに比べると、大事に扱われていたと思います。入った時から目上の人に「朝原さん」と呼ばれました。
 演出部エリート主義で、教えとして、「走るな、大声を出すような奴は大した奴ではない」という特殊な育ち方をしました。
 大船撮影所は、俳優もいれば、大道具のこわいおじさんもいる。普通の会社と違って、いろんな人がいる。僕には理想的職場でした。
 若い社員がいなく、社員が監督するのも久しぶりだったせいか、周りの目が温かかったです。
 ダメなら田舎で実家の商売を引き継げばいいやと割り切っていました。
 最初の監督作品「時の輝き」を撮った後でも、給料が安くて食えない時代があり、合間にテレビの脚本を書いたり、CMのアルバイトもしていました。
 その後、大船撮影所の閉鎖問題で組合の書記長になり、会社から干された時期もあります。(約5年間)
 その後「釣りバカ日誌」を撮り今に続いています。
 今まで8本撮っていますが、作品の脚本はすべて自分で手がけています。

山田洋次監督について聞かせてください

 山田監督には感謝しています。助監督でボーとしててもいいと認めてくれる監督はあの人だけ。
 かなり真面目で公正な人。尊敬出来るところが多かったです。
 山田監督の「才能なんてほとんどの人間はない。素質があるかないか。100%言えるのは、才能は俺にも君にもない。後は一生懸命考えるしかないんだ。」という話に好感を持って、20数年の師弟関係が続いています。
 山田監督は働きつづけ、僕は酒飲み続けてますが(笑)、社会人生活を左右したのは山田監督ですね。

演技指導の苦労話はありますか?

 「釣りバカ日誌」の三國さんと西田さんとは全く演技スタイルが違います。
 三國さんは考えに考えて芝居をする人。「この役は…」から始まり、「この発言がこの映画でどう意味を持つか」、更には「この映画が日本でどういう価値があるか」まで考えられます。対して西田さんは何も考えない。その場の作用反作用、運動神経で、乗り移ったように芝居をする人。
 その演技スタイルの全く違う2人をスパークし、リハーサルしながらその接点を見つけていく。こうしたら折れますよとか、動きますよということも監督の仕事としてやります。

体力気力のいる監督というお仕事で健康面に気をつけていることはありますか?

 実は35歳で肝吸変になりました。
 「半年酒を止め、痩せなければ死にますよ」と医者に言われ、嫌いですが走っています。4、5年ジョギングをしています。
 体力はいらないけど、いさ喧嘩になったら助監督には(気持ちの上で)勝たないと、と思っています。(笑)

目指されている監督像、やりたい仕事はありますか?

 20年間会社に言って企画が通ったことがない。そういう点でまだ演出屋でしかない。  みんなに受けるからではなく、こういう作品を撮るという強い企画パッションを持つ監督になりたいです。
 撮りたい作品は普通の人間を撮りたい。同年代の自分に近い、例えば香川県出身で東京でブラブラしている人間の話。一番世の中では撮ってはいけない、商売にならない映画ですけどね。
 身につまされるもの、大げさでなくしっかり実のつまったまともなドラマが撮りたいです。

長期ロケなどで家をあけられるときなど、どのようにされてぃますか?

 長期といっても2か月くらいですが、家族におみやげを買ったり、お誕生日にプレゼントをきちんと贈ったり、普通のお父さんしています。

高高時代の思い出は?

 映像同好会で8mmをまわして、文化祭で上映していました。また軽音楽部にも所属し、ベースを担当していました。音楽の才能がなくて大変でした。
 小学校から同じ一宮グループでメンバーを組んでましたが、歌は歌わず、フュージョ ンで楽器だけ。みんなで下向いてラリーカールトンやカシオペアを演奏していました。
 昼休み中庭でバドミントンを一生懸命やったことも記憶に残っています。

グローバルアカデミーでの講演の思い出や感想は?
 映画について話しました。
 たくさんの人が来てくれて、一生懸命聞いてくれました。女の子が半分以上で、とても増えて、明るく変わったなという印象を受けました。
 とてもみんな素直でしたね。

高松の街の思い出は?

 高高帰りに常盤街で名画座とか映画を観たことが思い出ですね。
 高松には今でもよく帰省します。助監督時代は年の半分帰っていました。

一番好きな映画は?

 フランソワ・トリュフオーの「大人は判ってくれない」です。
 これなら俺も撮れるなと思いました。

東京玉翠会参加者や高高OBヘメッセージをお願いします。

 最近つくづく郷土・同郷のありがたさが身に染みてくるようになりました。
 所詮自分は高松で生まれ、ある家庭で育ったということが根本だという感じです。人生後半戦に向けて、つながりを強くしていきたいと思っていますので、その節はよろしくお願いします。