とき: 平成10年11月24日
場所: 神田淡路町 「神田ふじ川」
料亭「ふじ川」の大座敷には、コの字に配置された卓、その卓上には既に料理も配膳されている。
コの字の開口部とも言うべき、卓が配置されていない空間には、デンと大きなテレビ受像器が見える。
テレビは、特別に設置された卓上に鎮座している。その受像器の横にはビデオが補佐役として構えている。
開宴少し前。20人程の男が、コの字に配置された卓を囲んで座談中である。
座談中でも、自然に中央のテレビ受像器に目が行く。
皆、今や遅しと開宴を待つ。
今日は、ついに「猥褻とは何か」をテーマにした大西先輩の大講演会が行われ、併せて年を忘れるための高高神田会恒例の大忘年会を兼ねる。
大西先輩は、かって映画「黒い雪」の猥褻裁判で無罪をかち取った弁護士であり、今日は、その実際の映画も上映しての講演会である。
今夜は、大西先輩、弁護士から弁士への華麗な転身の夜でもある。
座敷中央に鎮座まします受像器は、その問題の「黒い雪」映写のためである。
定刻6時24分
取りあえず、開宴である。
神田会の恒例で、まだ参加者は完全には集まってはいないが、定刻になれば「乾杯の稽古」をして、とりあえず開宴をする。
乾杯用の酒は、三崎屋先輩(34年卒)の差し入れによる四国、川之江の名酒である。
久保先輩(27年卒)の音頭で乾杯をする。
さて、いよいよ大西弁士、活弁の開始である。
が、大西弁士は、客が少ないし、女性がいないのでは話さないぞ、とのたまわる。
今日の女性出席予定者は、誰で、どうなっているのか、とご下問がある。
今日は、豊子さん、純子さん、みどりちゃん、馨子ちゃんです、と奏上すると、どうして、野郎はこれだけ出席しているのに、その女性出席予定者が来てないのだと、再ご下問である。
どうしてだと言われたって、純子さんは相模原から先程電話があって遅れるそうで、馨子ちゃんはアルバイトで遅れて来ます。
後は、大西先輩の話が終わってから来るのではないでしょうか、と余計なことを言ったら、
先輩は、ケシカラン、俺は女性がおらん(いない)とこでは喋らんぞと仰せられる。
いや、困った事態になったぞ、と思っていたら、中村先輩が到着された。何んてたって高中50回卒の大先輩である。
中村長老の音頭で、正式に乾杯をする。既に、会場は30数名になっている。
そこで、大西先輩に、取りあえず、問題の「黒い雪」とやらを見ましょうかと取りなして、映像の実況見分から開始することにした。
映像は、高島監督(48年卒)が入手して持参してくれた。
映画をそのまま放映していたら、宴会が終わってしまうと困るので、講演に必要な箇所のみを抜粋編集してくれたものを持参して貰った。
映像が流れる。
出演者・製作者等のクレジットからである。さすが監督、クレジットの部分を略すると関係者に失礼ということでの配慮だ。
皆んな、さあて問題の話題となった猥褻映画とはどんなものか、固唾を飲んで見つめる。
しかし、何だか普通の映画のシーンが続く。
何だ、これは。
これが問題の映画か、との質問が続くと、高島監督が説明して、一応、ストーリーが分かるように編集しました、との回答。
何だ、それでは、面白くないではないかとの声が、いたるところから聞こえる。
こうなってくると、皆んな画面から目を話して私語の開始である。
また、勝手に気儘に騒ぎながら飲むという、いつもの神田会の状況になった。
画面に、男女の姿が出てきた。
途端に「おー」との声が上げる。
ベッドシーンである。
さあて、来たぞ。待望のベッドシーンである。
相変わらずの騒がしさであるが、全員が画面に注目していることは分かる。
画面は、裸体の女がベッドに仰向けに寝て、その上に黒人の男が覆い被さっている。
そうだ。来たぞ。
早くも問題のシーンのはずだ。
しかし、画面で、二人の男女は、そのままで動かないまま、じっとしている。
何だ。これは。
ここで大西先輩の説明がある。
これは、問題となったシーンの1つである。
部屋の外からこの二人を見ている青年が今登場したが、この青年と、さっきのベッドシーンの女性が恋人同士である。
この若い女性が黒人に犯されたのだが、この女性は、青年が外から見ていることを知って、見せつけるように性行為をした
というのが、ストーリーなのだ。
と大西先輩からの芸術的なご説明なのだが、その説明は説明としても、そのベッドシーンとやらが、何だか全くないではないか。
男女がベット上で重なっているのは分かるが、それが単に接触しているだけでは、ベッドシーンなのかどうかも分からない。
最近のポルノ映画を見慣れた者から、何だこれは、と文句を言う声、いやいやそれが芸術なのだとの声、それでは詰まらないぞ、との反論も当然に上がる。
とワイワイ言い合っているうちに、場面が変わった。
あれぇ、あれでお終いか?
場面は変わって、映画館の中。座席に座る若い男女。
大西弁士の説明。
このシーンも猥褻かどうかが問題となったシーンである。
画面は映画館の座席のロングショット。映画館には観客は二人だけしかいない。
二人が映る。若い二人が映画を見ているのだろうか。
普通のシーンである。
男女の手が少し動いているようでもある。
続いて女性の顔のアップ。
普通の顔つきから、少しづづ変化し、徐々に興奮している表情が映っている。
それが暫く続くと、シーンが転換した。
おーい、今のが問題のシーン?
弁士に質問の声。
その通り、と弁士の回答。
ほんまかいな。
続いて、場面は、若い女性が、全裸で基地(横田基地)の近くを走っている。
どうして走っているかは、分からない。
当然、弁士に質問がある。
弁士曰く。これも問題のシーンです。
遠くのカメラから若い女性が全裸で走っているシーン、それをアップして、女性の上半身が映っているシーンが交互に続く。
大西先輩の説明。
これが猥褻かどうかが争われたシーンであるぞ。この頃には、乳房が映っているので問題となったんやな、これが。
ほんまかいな。
映像を見ていると、もうお終いである。
そうすると、今まで見てきたのが「問題のシーン」なの?
これが問題の猥褻映画なの?
本当ですか。
いやー、驚いた。
こんなシーンのために、30年前は、猥褻かどうかで大の大人が国を挙げて大論争をしたの ?
ほんまかいな。
今では、テレビですら、こんなシーンでは刺激がないと笑われ、誰も猥褻なんて言わない。
日本の30年前は、乳房が映ることすらも「猥褻」なんて議論がある程の社会であった
のだ。30年で本当に日本は変わってしまったのだ。
映像が終わったら、大西先輩の講義である。
まずは言葉の説明がある。
猥褻の「猥」という言葉は、みだる、みだらの意味で、「褻」という言葉は、衣に執ると書いて(実際には執るという字とは違うが)、着物をとるのだから裸と思ったら大違いで、下着とか普段着という意味だそうだ。
「語林」で見ると、猥は、けものへん(犬)で畏は犬の鳴き声の擬声語を意味し、転じてみだらの意味を表すとのことである。
褻の執の字は若木を手にとる形で、ずっと手にした着なれた衣服で普段着の意味となり、肌着、下着となり、なれる、汚れる、汚らわしいという意味になったらしい。
この二つの字で、「猥褻」が「みだらなこと」とか「男女間のだらしいない行為」という意味であるとされている。
大西弁護士は、次に、刑法174条(公然猥褻罪)と175条(公然猥褻物陳列罪)の説明に及んだ。
前者は、公然と猥褻な行為をした者を罰するもので、6月以下の懲役(又は30万円以下の罰金)で、
後者は、猥褻文書、図画(「とが」と読み、「ずが」ではないとの註釈あり)などを販売し、また公然と陳列した者が2年以下の懲役(または250万円以下の罰金等)に処せらられるのだと指摘し、
では舞台でショーとして猥褻行為をすれば、いずれで罰せられるべきや、と本日受講している学生に問うたが、
今日出席の学生は、「陳列」というのは女には適用ないで、なもし、女の場合は「マンレツ」というのだ、なもし、と松山の生徒のような対応をする。
大西教授の講義は、猥褻の定義をチャタレー裁判の最高裁判決を持参して説明する。
判決に曰く「徒らに性慾を興奮せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものを言う」。
分かるかね、諸君。
徒らに(「いたずらに」と読み、「とに」なんて読んではいかんぞ)性慾を興奮せしめだね、この性慾の「慾」には、心がついているぞ、普通の欲望の欲とは違って、心がはいっとるからの。
これを聞いた生徒の中から発言。
「なる程、心のある欲望ね。そう言えば、俺はショートパンツ姿を見ると興奮するなぁ」
「先輩何言うとんの、ブルマー姿やろ」
「ブルーマ姿というのは、中村先輩と違う?」
と一部で興奮して盛り上がっている。
ブルマー論争を無視して、大西教授の授業が続く。
この猥褻は、普通の人が毎晩している-いや、三崎屋君は5日に一度位かの-ともかくそういう行為自体は、問題でなく、それが公然とされることを問題としている訳だ。
この基準は、CONTEMPORARY COMMUNITY STANDARDSといって、その時点における社会の基準に従うものだ。
このコンテンポラリーというのが重要なのだ。
これを聞いた生徒がまた反応する。
何んやて、インポテンポやて?
(違うが。コンテポラリーや。インポとは、えらい違うぞ。
そちらは、後で久保先輩から、バイヤグラの紹介があるやろけど。)
コミュニティ・スタンダードっちゅうのは、社会標準、普通の大きさちゅうことやな。俺のはスタンダートより、ちょびっと小さいけどのー。
(こらっ。誰が、お前の話をしとんじゃ。)
またも、神田会の酔っぱらいの雑談ムードになってくる。
教授は、いつもの神田会のガヤガヤを無視して講義が続ける。
今日は、心理学の波多野さんの艶笑文学の特徴というのを持参した。
同時に、最近の週刊読売の小説もコピーして配付する。
この小説などは、全編これ性行動の描写に尽きている。こんなものが、メジャーな週刊誌に掲載されているのだ。
ここで、小島さん(43年卒)から、日経新聞にも載っているよ、との指摘あり。
日本のポルノ文化は、日刊新聞にも浸透してきていることの鋭い指摘である。
ここで、大西弁士の今日の講演が終わった。
いつもの神田会ならば、ワイワイがやがやで、余り講演を聞いてない状況が現出するのであるが、話題のせいか、大西弁士の説得力か、騒がしい中でも講演が充分に聞き取れた。
しかし、それにしても、この「猥褻なる映画」とは言うのは一体何なのだ。
30年後では、全く色気も何もない映画ではないか。こんなものが本当に当時猥褻なんて議論が起きたということ自体信じ難い。
私などが田舎から上京してきた30年程前の日本では、セックスを描写していないような男女の映像や、女性の乳房の映像だけで、社会的にはワイセツなるものとして考えられ、国家が国家予算を費やして、裁判などという大演劇を催した時代であったのだ。
大西先輩は、その演劇の主役であったのだ。
30年で、如何にセックス描写の自由になったことか。
日本では、それでも、未だに映像で性器の描写の部分にボガシが入っているようである(実態的には自主規制という間接的な禁止だろうが)。
しかし、もはや、その禁制は、大戦場で全ての味方軍が敗ぶれていて、最後に、砦とも言えないようなところで、最後の砦と称している孤軍のようでもある(ところで、最近、浮世絵とか西洋の笑絵などの本が本屋に並んでいて、そこでは、かってのボカシもなくなっている。
この程度の書籍は、もはや警視庁も取締りを諦めたのだろうか)。
この30年で、日本が如何に変わったか、人の意識というものが、如何に簡単に変われるものか。
都市社会というものは、如何に凄まじく人の意識を変化させていくか、つくづく考えさせられてしまう。
都市社会のもつ「自由」の概念は、人を開放するという面と、人間行動の基準を持たない者にとっては、全くの行動基準がなくなることを意味し、タガが外れる状態になってしまうことを意味する。
いま、日本は、日本の村社会が築きあげてきた文化がものの見事に崩壊している過程であり、日本の社会問題の多くは、その崩壊の悲鳴のようである。
我々は、その中にあって、古い日本社会の「節制」「自制」「節操」などというものが、人間の赤裸々の欲望という力と、自由という幻想の中で、流され失われて行っている目撃者でもある。
今後は、娯楽提供側は、文明の利器ー映画、放送、ビデオからインターネット、更には、映像メガネ、立体映像、触感映像、更に行けばインタラクティブな立体触感映像ーなどを利用して、より自由に、よりワイセツなものを提供していくことになろう。
娯楽を受ける側は、刺激がマヒしてより強い刺激を求めていくであろう。またその中には、ワイセツなものは見ない自由なんて議論も当然起きてくるだろう。
現代は、週刊誌だけでなく、一流新聞に性描写が堂々と掲載される時代になっている。
これが現代日本のジャーナリストの見識の表明である。見識なんて言う言葉すらも、現代の欲望社会、経済最優先社会の流れの中で消滅しつつある、ということであろう。
時代は、いよいよ面白くなっていき、その流れにいよいよ自分を見失う時代にもなっていく。
ワイセツ裁判というのは、ある意味では時代の流れを見間違った国家が演じた「茶番」でもあったが、人の欲望を自由という言葉でタガを外した時に起こる大きな奔流に流されつつあった古い価値観の最後の抵抗でもあった。
そんなことが痛感できた大西先輩の名講義であった。
と、ここまで書いてきて慌てて補足するのだが、この会で私達が、こんなことを考えながら講義を聞いたり、映像を眺めていた訳ではない。
酒は呑んでいるわ、メシは食っているわ、映像を見つつモットやれと叫んでいるわ、隣と雑談はするわ、大西先輩の講義を聞きつつ大きな声で質問はするわ、ともかく大宴会なのだ。
続いて、久保先輩から持参のバイアグラの説明である。
これが、噂のバイアグラです。
私は、アメリカに行って、処方箋を何とか工夫して取得して、購入してきました。
7錠程持参しました、と言って見せる(奥さんの指輪ケースのようなものに、噂のバイアグラが7個、宝物にように入れられ、テープで接着してある)。
この大きなものは、最初製造されたもので、これを一つ飲んで死亡事故がでたために、最近は小さくなって、この左の奴が普通のものです。
これを80才ならば、1個、70才ならば2/3、60才は半分という具合に使います。これ以上使うと心臓をやられます
(ここで、大西先輩が疑問を呈した。
心臓をやられるなら、80才の方が危ないから少なくなるのでないか?と難しい質問をしたが、余り難しすぎて、酒が入った席では無視されざるを得ず、笑いの中に無視された)。
では、これを回しますので、充分にご覧下さい。
見るだけなんですかとの声があった。
27年卒の中で、「これを飲むと、寝たきり老人でなく、立ちっぱなし老人になると心配やのー」との声も上がった。
ここで、講演等を終えて、各自適宜飲み食いをする。
酒も入って、喧騒な中で、突然、久保先輩が立って、都々逸の紹介をする。
しかし、一旦私語の世界になって盛り上がっている世界で、聞いている者より聞いてない方が多い。
久保先輩、一生懸命に読んでいるが、世界の大勢には逆らえない。
あえなく、途中で中止した。
久保先輩ですらも会場から注目を浴びないこともある、という珍しいシーンであった。
もはや、いつもの神田会。
飲み食いとワイワイガヤガヤの会に戻ってしまった。
この飲み食いの中で高島監督が持参した日活ロマンポルノを流しておいたが、一部の者がチラっと見ただけで、会場の会話の盛り上がりの中で、単なる背景ビデオとして流れていた。
やはり高高会。皆んなおしゃべりの方が好きなようだ。
会も盛り上がって、終盤。
本日、初参加という勇気のある者の自己紹介があった。
この記録担当者は、いつもの通り酩酊し、誰がどんな挨拶をしたかは忘れたが、その中で、
「わいせつは人間だけ、動物にはない」と自らを好き者と紹介した者、
「最近、駅などで若者がキッスをしているのは、猥褻ではないか」と鋭く社会分析をしつつ自己紹介をした者、
「今日は、神田会出席のため退社しようとしたら上司のチェックを受けて、やむを得ず『お通夜』と答えて、上司のチェックを潜ってきた」という厳しい環境の中、自らの工夫で人生を歩んでいる者、
各々、見事な自己紹介があった。
しかし、猥褻を考える会に出席するのに、縒りによって、お通夜とは、見事な機転と呆れるしかない。
会の最後に、高島監督持参のビデオを希望者に配付した。
当然のことながら、希望者多数であったが、そこは高高卒業の同窓生、若い者を中心に、互譲の精神で話し合いが行われ、簡単に配付が決まった。
久保先輩のバイアグラも配付することになった。
当然のことながら希望者多数であった。
そこは高高卒業生、先輩を中心に互譲の精神で話し合いが行われ、簡単に配付がきまる予定であったが、物珍しさもあり、ほぼ全員が配付希望をしたために、簡単に話がつかない。
結局、全員でジャンケンできめることになった。
ジャンケンというのは、勝負であるから、ともかく盛り上がる。
この会は、ともかく盛り上がるのが目的の会であるから、最後のバイアグラ旋風で大いに盛り上がって大成功であった。
その後、二次会には、例によって、
久保兄弟、大西講師、佐々木次回講師、土居、高島監督、それに洲崎、池田、三谷、中山の50年卒勢、
小山髭社長、途中から長尾女史、原木(60年卒)と太田(平成7年)の若手コンビが出席し、
来年の東京玉翠会のテーマについても議論がはずみ、高島監督の「恐るべき讃岐うどん」が良いと意見が一致した。
このように、いつものように、充実した時間を楽しめた。
最後に、今回の講義を聞いた後での寄せ書きを紹介したい。
如何に参加者が真面目に講義を聞いたかを立証するに充分であろう。
・わたしの いろけと せつどが つみなのね(純子 松井)
・最近わいせつなことをしてません 今夜はしたいと思いますが無理でしょう(池田)
・広東語でわいせつは知りませんが、助平のことをハムサップという(香港7年三谷)
・諸先輩のパワーに圧倒されました。バイアグラも猥褻罪も不要でしょう(小山)
・来年総会に「額縁ショー」を幹事としてやります。捕まったら弁護よろしく(洲崎)
・私は団塊(だんかい)の世代です。団魂やダンコンの世代ではない(佐々木)
・ イスラムの世界では陰毛がわいせつで、女性は毛を必ずきります。
方法は、蜂蜜にレモンとかライムを混ぜて、毛に塗り、乾いたらバリバリと剥がします。痛いです。
また、女性はクリトリスを切除します(中山)
・わいせつなことをした記憶はないが、11月11日に第一子が生まれました。
・猥褻という字がわいせつだ(中村)
・今の世の中すべてがわいせつだ(久保)
・"秘すれば花"とやら(林)
・限り無き人類存続の鍵だと思う(谷川)
・バーチャルリアルティの世界のわいせつは進む。人間的、生物的にどうなるの(久保)
・秋深し 隣の客は よく乳吸う 客だ(二茶)
ということで、今年も盛り上がった大忘年会であった。
何と言っても、話題が話題だけに、自分の「トシ」も忘れてしまう程の忘年会であった。